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泣いてしまえるならいっそ、

  • violeet42
  • 2016年11月15日
  • 読了時間: 2分

ホステスの希と常連客の絵里

「はじめまして、希です」

 妖艶にきらめく紫色のドレスを身に纏ったその人を見た瞬間、ああこれが落ちるという感覚かと他人事のように感じた。

「絵里さん、今日も来てくれたん。うれしいわあ」 「あの、これ」 「これ、うちが前から欲しかったネックレスやん。ありがとうっ」

 希さんは身を寄せてそっと私の膝の上に手を置く。

「希さんに似合うと思った、から」 「いつもありがとうなあ」

 うれしそうに笑いかけてそっと膝の上からぬくもりが離れていった。毎晩店に通って希さんに会うことだけが今の私の生きがい。そのためならいくらでも紙切れをばら撒くことだってできる。希さんが欲しいものなら何でも買ってあげたいの。服も時計もバッグも。たとえ5分もそばにいてくれなくてもいい。私の愛はそんなことでは揺るがない。私に挨拶だけして他の席へといってしまう希さんの後ろ姿を食い入るように見つめてそう言い聞かせる。

 希さんの隣は私の場所なの。気安く希さんに触っていいのは私だけなの。希さん。ねえ希さん。

 嘘でもいいから愛してほしいなんてそれこそ全部嘘だった。取り繕った偽りの装飾の世界に本当なんてどこにもない。泣いてしまえるならいっそ、その方がよかったのに。

 私は好きな人の本当の名前すら知らない。

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