時よ止まれ 君は美しい
- violeet42
- 2016年11月14日
- 読了時間: 10分
重いまぶたを持ち上げればすっかり日が傾いていた。ソファに横たえていたからだをゆっくり起こして座り直す。目の前で沈黙を守るテレビをぼんやり眺めながらあくびをひとつ。 知らない部屋。知らないテーブル。知らないソファ。知らない匂いがする。きのうも知らない女の子にとても親切にしてもらった。あまい声で話しかけられへらへらと笑い返せば、あとはいつもの流れ。さみしがっている女の子はみんなやさしい。みんなみんな、あっけない。 立ち上がりだるいからだを引きずりながらキッチンに向かい、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出そうとして手を止める。ヨーグルトの隣にひっそりと置かれたレモン。あざやかな色がまぶしくて目を細める。
凛の色だったはずなのに、どうしてだろう。うしろめたくてたまらない。
そっと手にとって、がりりと歯を立てた。つめたい。すっぱい。にがい。びりびりと舌を刺激して眠気は一瞬にしてどこかに飛んでいったのに、どこか頭の奥がまだ微睡んでいるような感覚がしてはっきりしない。いつまでもさめない夢の中みたいにふわふわしている。わからない状態をいつまで見逃し続けていればいいのかな。いつまでこんなことするんだろう。
今日は約束の日。もうずっと会っていなかったあの子と久しぶりに会う日。壁に掛けられていた時計を確認すればもうあまり余裕がなかった。差し迫る夜を他人事みたいに感じている自分がいる。
「ねえ」 「あ、おはよう」
いつの間にか背後に立っていた女の子に笑いかける。
「昨日のこと、ちゃんと覚えてる?」 「ううん」 「じゃあ昨日言ってくれたことは?」 「ごめんね」
ごめんね、凛にはむずかしすぎるよ。これは先の見えない夢だから。さめない夢はどんどん場面を変えてこれまでを切り捨てていく。
「それじゃあ私の気持ちはどうなるの?」 「うーん、わからないよ」
わからないよ。さみしがっていたのは、近づいたのは、凛じゃないから。
「さいってい」 「ごめん」
投げられたクッションをよけずにそのまま受け入れた。そんなに睨んだら可愛い顔が台無しだよって、口にしようとしてやっぱりやめた。
「もう、出て行って」
追い出される前になにか食べさせてもらえばよかった。持っているのは空っぽのからだと首にぶら下げた一眼レフカメラ。真姫ちゃんが使っていたものをそのまま譲り受けたカメラ。あの頃、たまに借りていろんなものを撮っていたら卒業の日に餞別としてぶっきらぼうに渡してくれたのを今でも覚えている。
「凛ちゃんはきれいなものを見つけるのが上手だね」
あの子が少しはにかみながらそう言ってくれたのが嬉しくて嬉しくて撮るたびに見せていた。屋上からの空や校庭の花壇、風景ばかり撮るのは今も変わらない。 なのに一枚だけ、たった一枚だけ、あの子を撮ったことがある。夕暮れの教室でうたた寝をしていたあの子はどうしようもなくきれいで、なにもせずにやり過ごすことができなかった。この瞬間を切り取らないときっと後悔する。永遠にしないと絶対に後悔する。震える指でシャッターを押した。
人物を撮るのはきらい。思い出はかなしい。
あの頃にたくさんのものを手に入れてそのまま置き去りにしてきてしまった。いちばんほしかったものは、ほしがることすらできなかった。日々を積み重ねて使い古されていく日常。そして今。
ぼんやりと歩いていたら待ち合わせの公園にあっという間に着いて、ベンチに腰かけた。このまま待っていればあの子がやってくる。なにを話せばいいのかな。どんな顔をすればいいのかな。考えれば考えるほどここにいてはいけない気がしてすぐに立ち上がる。 ここにいていいわけがない。あの頃にすがりつきたくない。思い出も未練もなにもかも、あの写真に閉じ込めたから。もうそれで十分。 駆け出したい気持ちを抑えて、速足ですぐに公園を出て住宅街を突っ切り角をまがって細い路地に入る。そのまま一歩道を通り抜けた先は踏切だった。渡る前にかんかんかん、と警報機が鳴って遮断機がゆっくり下りる。 危険、踏み越えてはいけない。そんなことわかりきっていたはずなのになにを期待してたんだろう。みじめになるのは自分自身なのに。
「凛ちゃん」
なつかしい声。やわらかな声。あたまが真っ白になる。逃げたい。ここじゃないどこかに行ってあの頃からうんと遠くに逃げないと。それなのにからだが言うことを全然聞いてくれなくて、ゆっくり振り返る。
「やっとつかまえた」
白いワンピースを着た彼女が、あの頃と変わらない笑顔でほほえんでいた。
「ええと、」 「久しぶりだね」
あの頃となにも変わってないみたいに、ずっと会っていなかったなんてうそみたいに、どうしてそんな声が出せるの? 凛だけがよごれてしまったみたい。
「うん。久しぶり、花陽ちゃん」
花陽ちゃん、ぎこちなく口に出したその呼び方におかしくなった。あのね、もうおとなになったんだよ。猫みたいな真似も、自分のことを名前で呼ぶのもやめたんだよ。もうこどもじゃないから。あの頃はもうなくなったから。同じ笑顔で応えたいのにきっとうまく笑えてない。
「あいたくなかったよ」
近づいてくる列車の轟音に、囁いた言葉がさらわれた。風を切って目の前を通り過ぎる列車を二人で見送る。こんな風に振り返らずつき進めたらよかったのに。
「これからどうしようか? そういえばなにも決めてなかったね」 「花陽ちゃんは、」 「どうしたの?」 「ううん、なんでもない」
ゆっくりと遮断機が上がったのに、なぜかうまくからだを動かせなかった。足がすくんでどうすればいいかわからない。どうしてだろう。どうしてこんな、
「やっぱり帰るね。せっかくなのにごめん。今日は調子わるいみたい」
消えてしまいたい。消してしまいたい。今日をなかったことにしてまたいつもの日常に戻らないと。それじゃあさようなら、なんてヘラヘラ笑って手を振り踵を返そうとしたらそっと腕を掴まれた。
「凛ちゃんどうしたの?」 「わたしは、」 「さみしそうな顔してる」 「え?」
さみしいのはいつだってわたしの周りにいる女の子のはずなのに。凛はそれに応えてあげる側なのに。そうしてわからないふりを繰り返して今があるのに。
「わたしの家近いから」 「いや、あの、」 「そんな顔で一人でいたらだめだよ」
そのまま手を引かれて踏切を渡る。鉛みたいに重い足をゆっくり動かす。なんて言ったらわからないから、なにも聞いてこないから、二人で黙々と歩き出した。 もうすっかり日が落ちて、空には月がぽっかり浮かんでいる。まるい月が凛たちを淡く照らしながら見下ろしていて、きっとどこに逃げても見つかってしまう気がしたから言い訳して逃げるのをやめた。 彼女のやわらかい手のひら。こうして手を繋ぐのはすごく久しぶりなのに、当たり前みたいに手に馴染むからやるせない。手を引いて進むのは凛の方だったはずなのにしっかりと握り手を引く彼女の後ろ姿が新鮮だった。あの頃の延長に今があることが苦しい。
「ここだよ」
五分もしないうちに少し古びたマンションの前で彼女が手を離した。そのまま案内されるがまま彼女の部屋のリビングに通される。
「ちょっと散らかっててごめんね」 「そんなことないよ」
彼女らしいシンプルで可愛い部屋。テーブルを挟んでお互いに向かい合うように座れば手持ち無沙汰で落ち着かない。
「なんか強引に連れてきちゃってごめんね」 「ううん。こっちこそごめん」
どこを見たらいいのかなにを話せばいいのかわからなくてテーブルの上で組んだ指先を見つめる。
「私ね、栄養士になって今は近所の病院で働いてるの。いずれはフードコーディネーターになりたいなって思ってるんだ。忙しいし大変だけど…楽しいこともたくさんあるし頑張らなきゃだよね」 「そっか。花陽ちゃんはすごいね」
少し照れくさそうに話す彼女は、真っ当に成長して真っ当に生きている。きっとあの頃手にしたものを、大切に抱きしめて育んできたからなのかもしれない。
「凛ちゃんはどうしてた?」
なんでもない質問のはずなのに、言葉には無自覚の切れ味があって凛の心をえぐる。
「逃げてたよ」 「え、」 「いろんなものから逃げてわからないふりをしてきたよ。自分がどうしたいかなんて考えたくなくて、いろんな人に寄りかかって甘えて生きてる」
あの頃、女の子らしくあることを自分に許したけど、自分らしくあることは許してなかった。自分のことは誰かに背中を押してもらわなきゃ決められなくて、選択肢は人任せ。
「わたしはただ、逃げてるだけだよ」 「凛ちゃんは、」 「おかしいよね。高校の三年間で、楽しいを全部使い切っちゃったみたい」 「どうして、」 「がっかりさせてごめんね」
視線をさまよわせた後、目が合ってすぐにそらした。もう進む道がちがう。同じ目標はなくなったから。
「どうして卒業してから全然会ってくれなかったの?」 「意味がないからかな」 「意味って?」 「あの三年間でいろんなものを置いてきたから一緒にいてもいなくても、どっちでもよくなったんだよ。花陽ちゃんにわたしは必要ないから」 「凛ちゃんが…っ……」
少しだけ声を荒げて凛を見据える。まっすぐに見据えてさえぎった。
「私が凛ちゃんを必要とするかどうかは、凛ちゃんが決めつけることじゃないよ」 「でもわたしがそう思ったから」
彼女はなにも言わず静かに首をふる。かなしそうな顔をするから、どうしたらいいかわからなくなる。
「ずっとあいたかった」
やめてほしい。やさしさは人を傷つけるんだよ。ただしさは人を追い詰めるんだよ。
「花陽ちゃんみたいに、みんながみんなきれいなままでいられるわけじゃない」
彼女が口をひらきかけた時、ぐうと鳴るお腹の音。とっさにお腹をおさえたら彼女が気の抜けたように笑った。
「ちょっと待っててね」
立ち上がってキッチンに消えていった彼女はしばらくしてお盆におにぎりと飲み物をのせて戻ってきた。
「食材切らしてたから簡単なものしか用意できなかったけど、よかったら食べてね」
たくあんが添えられたおにぎりと湯気のたつマグカップを凛の目の前に置いて、彼女が凛の隣に座る。
「お腹がすくとよくないよ。お腹がすくと心まで空っぽになったような気分になってさみしくなるから。子供の頃にお母さんがいつもそう言ってたの。だからもしお腹がすいたままにしておくことが当たり前になっている生活を今送ってるなら、よかったらいつでも遊びにきてね。お腹いっぱいにして凛ちゃんにさみしい思いをさせないようにがんばるよ。凛ちゃんが卒業してからのこれまでのことは私にはわからないけど、それでも凛ちゃんとこうしてまた会えてよかった。ほんとうによかった」
黙ったままおにぎりを一口、たくあんを一切れ食べた。たくあんのしゃりしゃりと心地よい歯ごたえと甘さが、お米のささやかな塩味と調和してすごくおいしい。どうしてかわからないけど涙がぼろぼろこぼれて胸がいっぱいになった。いつだってただそこにいて、そばにいてくれた彼女。あの頃と少しも変わらずに凛の隣に彼女がいる。
「うれしい時もかなしい時もどんな時も、ちゃんとごはんを食べて生活をしなきゃ。凛ちゃんにはいま一番必要なことだと思う」
口いっぱいに頬張ってただただ食べた。彼女がにこにこ笑いながら嬉しそうにそれをずっと眺めていた。
「おいしい?」 「……うんっ」
彼女がそっと親指で凛の涙を拭う。そのまま頬に手をそえて、じっとのぞきこんできた。
「でも私にもね、ごはんがちゃんと食べられなかった時があるんだよ。はじめて好きな人ができた時、あんなに大好きだったごはんが喉を通らなかったの」
ずきんと胸が痛んで涙が溢れる。
「凛ちゃんのせいだよ。責任とってくれる?」
いたずらっ子みたいに彼女が笑うからびっくりして目を見開く。こんな表情いままで見たことなかった。
「あ、えっと、」 「ずっと待ってたの。いつか凛ちゃんが迎えに来てくれるって勝手に押しつけて、私も逃げてた」 「凛は、その、」 「うん」 「あきらめてた。ほしいなんて思っちゃいけないって」
状況に追いついていないあたまを落ち着かせるためにマグカップに手を伸ばす。やけどしないようにそっと飲めばレモネードだった。あたたかい。あまい。やさしさが口の中いっぱいに広がる。マグカップをのぞきこめば、凛の色で満たされていた。 さめない夢なんてない。ゆっくりと目を覚まして現実をみる。逃げずにあなたを知って向き合いたいから。
「かよちん」 「うん」 「あのね、凛ね、」
耳打ちするふりをして頬にキスをした。真っ赤になった彼女をそっと抱きしめる。あの頃よりも大人びた彼女。ちょっと痩せてちょっと髪が伸びて、たくさんきれいになった彼女。
「写真撮っても、いい?」
時よ止まれ、君は美しい。 だけど永遠にしてしまうのはもったいないから、これからの一瞬を全部ちょうだい。
最新記事
すべて表示印象党の のぞえり漫画「わたしの青夏」の掌編版。内容は漫画と一緒。 (とくべつはざんこく) 葉と葉の間から射し込む木漏れ日ですら容赦がない。擬音をつけるならギラギラ。空がぐっと近くなって太陽が自分の目が届くものすべてをじりじり焦がしてそれから蝉が鳴いて土と草の匂いが濃くなる...
大きなプロジェクトを任されて私も一人前の社会人として認められるようになったと実感できるようになった。なによりも家のことを全部やってくれて私を癒してくれる希のために、その分私が会社でしっかりと働いて胸を張って希の隣にいられるように頑張れるのはとても誇らしい。 「ただいま」 ...
※援助交際ネタ注意 「こんなにもらってええの?」 「ええ、いつも楽しませてもらってるから」 そういってうちのむき出しの肌に一つだけキスを落として皺ひとつないシャツをサラリと羽織る絵里さん。 「今度は希ちゃんがひとりでしてるところが見たいわ」...