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Night in-cider

  • violeet42
  • 2016年11月14日
  • 読了時間: 16分

 考えていることがある。  ぼんやりと、うっかり、あらがえずに、意識して、状況は様々だけど、考えていることがある。私はこの気持ちにべつの名前をつけたい。本当はすでにわかりきっていることだけど、途方にくれていた。わかっていることが、自分自身の中で腑に落ちない。恋に落ちる、なんていうけれどそんな劇的なものじゃない。たとえば青から赤に変わっていくまでにはグラデーションがあって、ゆっくりと青が温かみを増して赤になる。そんな風にいつのまにかそうなっていた。そしてぐるぐると考えた果てにたどりついたおぼつかない答えは、執着。私はあなたにこだわっている。

 好き、なんて  そんな身も蓋もない言葉で  息ができなくなるのは  絶対にいやだ

 梅雨がながく居座っていた。やっと止んだかと思えばどんより曇り空。湿った夜は家で過ごすのが一番だけど、

『いつもの場所』

 たった六文字のそっけない文面。希からのメールを確認したあと「うん」と、もっとそっけない二文字で返す。 二十時半、霧雨が降っていた。傘をさして自動販売機に寄り添う。サイダーを飲みながら今だけはなにも考えないようにしていた。

 大学に入学してから一人暮らしをはじめて、環境の変化と同時に人間関係も変化した。にこや後輩たちとはそれなりに連絡は取り合っているけれど、一番近くで寄り添っていた希とは、希だけはちがう。これまでの三年間で、わかったことよりもわからないことの方が多い。

 口に含んだサイダーはしゅわしゅわと口の中ではじけてぴりぴりと舌を刺激する。かすかなかすかなこの痛みを忘れないでいようと思った。いつかは泡のように消えるつながりだから。そっと撫でれば250mlのアルミ缶はひやりと冷たく、ぎゅっと握りつぶしてゴミ箱に捨てる。いつもの場所といつもの時間、いつもの行程。

「待った?」 「ううん」

 二十一時ぴったり。希は傘をさしていなかった。にっこりと微笑んでそのまま歩き出したから、傘を差しのべるタイミングを失って背中を追いかける。希の背中。あいまいな後ろ姿。手を伸ばせば届く距離なのに私と希の間は霞がかっていて、果てしない。急に傘をさしている自分が滑稽で情けない気持ちになったけれど今さらやめることはできなくて黙ったまま歩いた。私のマンションはすぐそこで、部屋についたとき希の髪や服は少しだけ湿っている程度だった。

 部屋では明かりをつけないのが暗黙の了解。手探りでリビングのソファに二人で座る。

「タオル用意するわね」 「そんなん、いいよ」 「でも、」

 希が肩にふれて、それから首筋を通ってシャツのボタンを探し当てる。ひとつ、ふたつ、外したあと、隙間に手がさしこまれた。

「かたくなってる」 「ん……っ」

 笑みを含んだ声が耳元できこえて胸の先端をきゅっとつまんだりこねたり。たまらなくなって自分で残りのボタンを外して脱ぎ捨てた。

 なか、すごくあつい。ぎゅーってしめつけてるの、自分でわかる? 溢れすぎてふやけそうやね。ここ、いやなん? ほんとうは?

 最中の希はいつもおしゃべりだ。  なんでもないみたいな手つきや声色で私のやわらかい部分を暴いて翻弄する。この行為に意味を持たせてくれない。手のひらで指で舌で味わい尽くして、それだけ。それでおわり。

「はぁ……っん、…ぁ」

 独りよがりで分かち合えるものがなにも用意されていない。私だけが丸裸の無防備で、希の服越しに伝わってくるやわらかさやあたたかさをかすかに感じてはどうしようもない気持ちになる。こんなの、ただの自慰だ。

 でもきもちよくて  よすぎて  ばかみたいに  やめられない

 頭がまっしろになって呼吸を整えるあいだ、希は私でよごれた手をていねいに洗う。ていねいに時間をかけて洗い流す。

「梅雨、早く明ければいいのに」 「そうやね」 「希は、」 「なん?」

 言いたいこと聞きたいこと知りたいこと知りたくないこと、山ほどあって全部同じところに行き着く。だからなにもしない。

「なんでもないわ。おやすみ」 「おやすみ、えりち」

 振り返らない後ろ姿がドアの向こうに消えていくのを見送る。さようならでもまたねでもバイバイでもない、夜の終わりを告げることば。

 おやすみなさい、私とあなたの夜。

 見切りをつけられた夜はきっと何層にも重なって暗闇を濃くする。そうして自分の立ち位置がわからなくなっていく。

暗闇は苦手だったのに、いつから平気になったんだろう? 私のからだが擦り減っていくこと、希が私のからだに飽きること、どちらが早いのか他人事みたいに考えながらそっと目を閉じた。

 夏が唐突にやってきた。  暑いのは苦手だけどこの季節は嫌いじゃない。夏は青が冴え渡る。いつだったか希が褒めてくれた。

「えりちの瞳に夏が映ってすごくきれいやね。ほら、覗き込むとミニチュアの夏がきらきらゆれてるんよ」

 はにかみながら口にしたその言葉が、わずらわしい暑さを全部まるごと愛おしく感じるくらいにはうれしかった。人生のきらめきを青春というけれど、春より夏の方が青にふさわしい。青夏、あの頃はもどらない。もう二週間も希から連絡がなかった。

「あの、絵里さん?」 「ええ、きいてるわよ」 「もしよかったら、来週の花火大会に」 「花火?」 「はい。その、私と」

ご めんなさい、無機質な声であやまる。べつに行ってもよかった。夏休みをそれなりに楽しんで割り切ればいい。でもきっとどこへ行こうとなにをしようと、まるで他人事みたいに実感がともなわない。静かに通話を切ってそのまま仰向けに横になれば開け放った窓からぬるい風が入りこみ頬をなでた。蝉たちが愛を叫んでいる。夏がむせかえっていた。畳がひやりと気持ちよくて目を閉じる。ゆっくりと体の力がぬけていく。

 ここは気持ちよくてせつない。 からんと、氷がゆれる音がして見渡せば大きなグラスの中にいた。しゅわしゅわと気泡が舞い上がり消えていく。ちいさなサイダーの海にひとりぼっちで、ガラスを隔てた向こう側には希が佇んで私をみていた。

「ここから出して」

 ねえ、きこえてる?  私もそっちに行きたい。ここは落ち着くけど、けど、なんだろう。なにがしたいんだろう。ずっと考えているの。でもあいまいにしてるの。それは、それは、  でも水槽に入れられた魚のように、このまま飼われてもいいのかもしれない。適度に餌を与えられて、そうしてこのちいさな世界を維持するのも悪くないのかもしれない。

 決められない  選べない  わからない

 希がガラスに手をついて私がそこに自分の手を重ねる。お互いに顔を寄せて近づいてそのまま、ガラス越しのキス。無機質なキスは凍えるくらい冷たかった。そういえば希の唇のやわらかさを私はしらない。もっとすごいことをしているのに、なにもしらない。  口をひらいて希がなにかを言っている。繰り返し繰り返し、それは五文字。

 さ よ う な ら 、

 目を覚ませばすっかり日が傾いていた。しばらくぼんやりと天井を見つめていたらゆっくりと意識が覚醒してそっと寝返りをうつ。どろりとまとわりつく空気。畳がじんわりと熱をもって気持ちわるい。びっしょりと汗をかいていた。どうしようもなくからだが重くてまだ夢にからだが半分浸かっているような感覚。ずっとここにいたのに、世界に置き去りにされたような心許なさがあった。

 倦怠感を引きずりながらからだを起こして携帯を確認すれば希からのメールが一通。

『いつもの場所』

 返信して軽く食事をすませてシャワーを浴びて、二時間後にはいつもの自動販売機の隣で佇んでいた。

 二十時半の熱帯夜、たちこめる熱気が夜を濃密にしていた。世界がまるごと浮き足立っている。サイダーを口に含みながら言い聞かせた。かすかなかすかなこの痛みを忘れてはいけない。泡だってはじけて、消えていく。自動販売機の明かりに誘われて虫たちが集まっていた。まるでなにか抗えない力がはたらいているみたいに惹きつけられていた。こんなの、まるで、私みたいだ。希にたかる悪い虫。他にもいるのかもしれない。

「えりち」

 やわらかい声。私の名前を呼ぶやさしい声。

「待った?」 「ううん」

 いつものように希が歩き出して私が追いかける。すぐそこまでなのに永遠みたいにながくて、部屋に着く頃には息があがっていた。深呼吸してドアを開ける。夜を閉じ込めた部屋はしんと静かだった。

ソファに座ってじっとしていたら暗闇の中で希が手を伸ばす気配がしてそっと掴む。

「どうしたん?」 「顔がみたいの。希の顔を、」 「なんで?」

 なんで? だってそれはどんな顔で私にふれるのかしりたいから。だから、おねがい。

「希は、私を」 「必要ないやろ」

 肩を抑えつけられて背中に衝撃がはしる。ぎしりと大きくソファが軋んだ。乱暴にショートパンツを脱がされて希の膝が私の脚の間に割り込む。

「ほら、こんなに湿ってる」 「ん……っ…ゃ、」

 下着の隙間から慣らしもせずに二本の指を挿し入れて乱暴にかきまぜられているのに、涙が出るくらい気持ちよかった。

「だれだってよかったんよ」 「はぁ……はっ…」

 何度も何度も絶頂を迎えてもうやめてほしいのにぐちぐちとはしたない音をたててよがってしまう。片方の手で強引にシャツを引っ張られてボタンがはじけてどこかに飛んでいった。ぎりりと胸の先端に歯を立てられ痛みにたえる。

「も、いっ…た、から……や…ぁっ」 「いつからこんな風に、いやらしくなったん?」

 ささやかれた瞬間、せき止めていたものが溢れた気がした。感情の洪水。喜怒哀楽で片付けられなかったあいまいなグラデーションの想いたち。震える手を伸ばして希の頰にふれる。

「ごめん…なさ……ぃ」

 口をついて出たのは謝罪。希がぴたり動きを止めた。私の不規則な息づかいだけが部屋を満たしていた。

「なにに対して…そんな風に、謝るん? こんなことされて腹立たんの? 悔しくないの? 馬鹿みたいに理不尽なことされて、」 「ごめんなさい」

 だってそれは、頰が濡れていたから。静かに涙を流して私にふれるあなたに謝りたかった。気がつかなかった。どんな理由で流す涙なのか私にはわからない。

「だからっ……だから、そんな言葉で、うちを正当化しないで」

 正当化、正しいも間違いも突き詰めすぎると全部おなじになる。ごめんなさい。ちがう。謝ることであなたを悪者にして、私は被害者になって、これはそういう謝罪だった。

「うちを許せる?」

 目をこらせば希が顔をゆがませて私を睨んでいた。そんな顔、みたことない。いつから私たちはこんなことになった? どの段階に戻れば修復できる? なにを見逃した? あなたをずっと見ていたのに、なんにも見えてなかった。

「……っ…うん、」

 本当はこんなそっけない二文字よりも、もっと大切にしている二文字がある。

(すき)

 考えるまでもなく、希が好き。わかりきっていた。

 気がついた時には頰が熱を持ち、あとから痛みが追いついてきた。振りかぶった希の右手の感触が、体温が、一瞬にして、

「うそつき」

 認めたら終わりだと思っていたけれど、本当に終わってしまった。べつの名前をつけようとしたところで本質は変わらない。ずっと好きだった。そして今も好き。ずっとずっとずっと、  部屋を飛び出した希の背中を見送ることすらできなかった。暗闇は苦手だったのに、いつから平気になったんだろう?

 暗闇が平気だったことなんて、一度もなかった。

 残暑、ゆっくりと夏が憂いを帯びはじめていた。それでも日差しはあらゆるものをじりじりと焦がし暑さが悪あがきをしている。あれから一週間、きっとこの先も希からの連絡はもうこない。  まとわりつく熱気、ゆらめく陽炎、巻き上がる砂ぼこり、すべてが不愉快でしかたなかった。汗なんかかきたくない。クーラーをつけて凍えるくらいに部屋を冷やして夏から遠ざかる。夏はまやかし。窓を眺めれば夕暮れにほんのすこし秋がにじんでいた。タオルケットに包まりソファにひざを抱えてうずくまる。はやく過ぎ去って。はじけた関係は元にもどらない。

「のぞみ、」

 ふれた頬の柔らかさと涙が忘れられない。あのときの表情。言葉。うそつき、うそつき、うそつき、どうしてなんだろう。教えてほしい。なにも知りたくない。消えないで。消えてほしい。矛盾と葛藤を繰り返して全部放り投げてしまいたかった。でもそれは、今にはじまったことじゃない。

 気持ちの整理がつかない  好きは身も蓋もない  息ができない

「こんなつもりじゃなかったんよ」

 はじめて抱かれたとき、希がそう言っていた。なんの感情も込めずに、淡々と。私は抱きしめるために伸ばした両腕をそっと下ろした。こんなつもりって、どんなつもりだったの?

 このまま時間に身を任せて気持ちが薄らいでいくのを待つのもいいと思った。耐えて耐えて耐え抜いてこの想いをあきらめる。そしていつかほかの人に恋をするのもわるくないと思った。でもきっと私は希を永遠に好きでいる。そうならない未来が当たり前なのに。馬鹿みたいだけどそれが今のすべて。

『いまから、いつもの場所で、ずっと待ってる』

 震える指先で送信した拙いメール。もう終わりでもいいから、最後に会いたい。それだけでいいから。苦しくて苦しくて部屋を飛び出したけれど、すぐに勢いを失いふらふらと歩いて自動販売機にたどり着く。ポケットに手を入れ硬貨を取り出しサイダーを買った。いつもの定位置に座り込んで通りをみつめると街が夜に染まりはじめていた。夏の夜は馴れ馴れしく、くらくらと五感が鈍って世界との距離が近く感じた。なまぬるい空気を吸い込めばかすかに湿ったアスファルトと土の匂い。きっと希はここに来ない。待たなくてもわかりきってること。でもどうしようもなかった。好きで好きで好きでどうしようもない。私はこの気持ちにべつの名前をつけたかった。

 好きってなに?

 好きは複雑でめんどくさい。優しくしたい。大切にしたいの。けどたまに思い切り傷つけて滅茶苦茶にしたくもなる。笑っていてほしい。でも泣いたり怒ったりする顔も見たい。好きに別の名前をつけようとしてもしっくりこない。

目閉じて考える。

 好きは捉えどころがなくてうまく形容できない。執着で期待で後悔で劣等感で優越感で楽しくて寂しくて幸せで不幸で、たとえ結果が伴わなくてもどうしたいかは自分で選べる。

 ものすごく遠いところまで来てしまった気分だった。目指す場所があったはずなのにいつのまにかどこに行きたいかわからなくなって、迷子のこどもみたいに途方に暮れていた。迎えに来てくれるひとはどこにもいない。好きなひとはここにいない。好きってなに?

 自問自答に息が詰まってうつむいたとき、どこか遠くでかすかに花火の音がきこえた。どくん、どくん、それは、鼓動のような、私を、奮い立たせる音。びりびりとなにかが背中を駆け上がって身震いする。顔を上げてぐっと夜空をみつめた。打ちあがる光がはじけて夜を照らす。どくん、どくん、と脈打って、

 好きは  好きっていうのは  あなたと一緒に  花火がみたい  この気持ち

 簡単なことだった。

 ぎゅっとサイダーの缶を握り締めて走り出す。もう待つのはやめる。私が会いに行くから。望まれていなくてもこの想いを全うしたい。そう遠くはない希のマンションまでの道のりを駆け抜ける。街灯、車、浴衣を着たひとたち、いろんなものとすれ違って追い越し追い越されながらもただただ前に進む。もっとはやくもっとはやくもっともっとはやく、頭のなかで私を急かす声が聞こえて力いっぱい地面を踏みしめる。風を引き裂いて走った。

「しあわせになりたい」

 高校最後の夏のある日に希がぼんやりとつぶやいた言葉を思い出す。下校途中に二人で公園に寄って、木陰で黙々とアイスを食べていた。あのとき私たちを取り巻いていた夏があまりにも穏やかで気持ちよくてほんの少し切なかったから、その言葉がすとんと心に落ち着いて私も同じ気持ちを共有していた。この完璧な世界がずっと続きますようにと願っていた。生まれもった人間の素直な欲求。しあわせになりたい。だれだって、しあわせを目指して生きている。

希のマンションにたどり着き、エントランスのエレベーターを待たずに階段を駆け上がる。ドアの前に着いてへたりこんだ。うまく息ができなくて酸素がたりない。からだがくたくたに疲れていた。

「はぁ……はぁ…っ、はぁ……」

 くらくらとめまいがしてインターフォンに手を伸ばそうとするのになかなか届かない。あと少しだから。希に会って、それから、

「えりち」

 ドア越しに名前を呼ばれた。戸惑いをにじませた声だった。ゆっくりゆっくり深呼吸して息をととのえる。立ち上がりドアに向かい合った。

「のぞみ、」 「帰って」 「いやだ」

 はっきりとした拒絶。でもなにもはじまらないまま終われない。

「ここをあけて」 「帰って」 「私の話を、」 「もう帰ってや…っ」

 それはせつなくひびいて、そっとドアに手を添える。ひんやりと冷たく、あのときの夢の続きをみているようだった。

「ごめんなさい」

 これは懺悔、私をすべて差し出す謝罪の言葉。祈るようにささやいた。

「ずっとこわかった。もういらないって、希に言われるんじゃないかって、怯えてたの」 「もう、終わったことやろ」 「まだ私たちは向き合えてない」 「そんな必要、」 「あるわよっ」

 まだはじまってもいない。臆病で核心をさけて気持ちのいいことばかり求めてそしてあきらめていた。どんな結果になるとしても自分で選び取りたい。

「私はちゃんと伝えなきゃいけなかったの。自分の気持ちに名前をつけようとして、もうわかりきってたのに保留にし続けてた。希に抱かれてうれしかったの。希だからうれしかった。他の人じゃ全然だめで、希がいい」

 とん、と願いをこめてドアをたたく。

「そんなの、うそや……」 「ここをあけて」

 これはあのときの夢の続きじゃない。私は自由な夏の夜の真っ只中に立っていて、あなたは孤独の檻の中。そこは気持ちよくてせつないでしょう? そして行き場のないちいさな世界。でもこちら側は、このおおきな世界は、無限に広がっていて私たちを飽きさせない。手にしていたサイダーの缶を握りめてもう一度ドアをたたいた。

「のぞみ」

 心の中でささやく。繰り返し繰り返し、それは五文字。息をすいこんで、ふるえる唇に想いをのせた。

「あいしてる」

 長い沈黙のあとに、がちゃりと鍵が開く音がした。ゆっくりとドアをあければ、ちいさくちいさく縮こまって希がしゃがみこんでいた。ぎゅっと抱きしめて腕のなかに閉じこめる。

「ごめ、なさ…ぃ……っ、うち…からだだけでも、えりちのこと……っ」 「大丈夫、だから」 「ひきょうな手、つかって…めちゃくちゃにして……それでも、」 「ちゃんと、伝わってるから」

 やさしく背中をさすって心を解きほぐしていく。ぐしゃぐしゃに顔をゆがませて泣きじゃくる希は私と同じだった。自分の気持ちにべつの名前をつけようともがいてあがいて、苦しんでいた。

「うちを、ゆるしてくれるん…?」 「うん」

 そっけない二文字は素直な気持ちとほんの少しの照れ隠し。あなたのやることなすこと、つま先から頭のてっぺんまで全部愛しい。

「えりち」 「うん?」 「ありがとう」

 鼻を赤くさせた希が私の胸に頬を寄せて、つよくつよく抱きしめた。もう後悔はしないしさせないから。でもまだひとつだけ、ぎこちない私たちとさよならするためにもうひとつ大事なことが残っている。

「これ、あげる」 「え?」

 手にしていたサイダーの缶を希に手渡す。戸惑いながら希がプルタブをあけるとぷしゅっとサイダーがあふれて私と希の顔を盛大に濡らした。

「ちょ、これ…っ」 「ひっかかったわね」

 目を丸くしながら驚く希の頬を軽くつねって見つめれば、ちょっと困った顔をして、それからふたりでこどもみたいに笑い合った。卒業以来はじめて見せてくれた本当の笑顔。

「一体なんだったん?」 「これは思い出よ」 「それってどういう……んっ、」

 引き寄せてそっと口づける。ずっとずっと焦がれてた。このままとけてしまいそうなくらい柔らかな唇に、ただ静かに重ね合わせてそしてゆっくりと顔を離す。ほんの一瞬の口づけだったけれど、まちがいなく永遠だった。きっとこの夜を忘れない。サイダーはしゅわしゅわと泡立ちかすかな痛みの後に、やさしい甘さをのこす。私のかなしい思い出ははじけて消えた。胸がいっぱいになって私の涙がこぼれそうになったとき、今度は希から私に口づけた。控えめだけどすこしだけえっちな希の口づけ。

「希の心臓、すごくはやい」

 胸に手をあてれば、どくんどくんと脈打つ。

「あっ……!」 「今度はどうしたん?」 「花火わすれてた」 「え?」 「ほら、終わっちゃう前に行かなきゃ」

 希の手をひいて二人で駆け出した。

 しあわせになろう  これからどんなことがあっても、  あなたとふたりでしあわせを目指したい

 私とあなたの夜がはじまる。

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