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微笑みよりも甘いのは、

  • violeet42
  • 2016年11月14日
  • 読了時間: 17分

ほんとうの物語をおしえて 3

 朝昼晩、規則正しく食事が用意されて、部屋が散らかることなく綺麗に保たれている。乱れた生活リズムがこの1ヶ月で改善されていた。例えば食器を洗う音だったり、掃除機の音、トントントンと手慣れた様子で包丁を扱う音。私にはあまり縁のない生活の音を希が奏でる度に居心地の悪さを感じていたけれど、今ではそれも薄れてきている。  なによりも一番の変化は、また小説を書き始めたこと。悔しいけれどにこの思惑通り、希との同居がきっかけになっているのだと思う。

 紡ぐのは感情を失った男の物語。この物語は誰にも渡したくない。

「やっと書き始めたのね」 「ええ」 「無名の作家のくせにせっかくにこが担当になってあげてるからには、いい話書きなさいよ」

 いつもとは違う、慈しむような眼差しを向けられれば調子が狂ってなんと言い返せばいいかわからない。

「これはあんたの物語よ」 「わかってるわ」

 私が私であるための物語。

 物を書いたり出版社に顔を出したりと私が仕事をしている間、希は専業主婦のように家事をこなしている。強く言いつけてからは私の仕事部屋にコーヒーを運んでこなくなったけれど、作業の途中で集中力が切れてリビングにいけばすぐにコーヒーを淹れて、徐々に私のペースを掴んできているようだった。自分の手の届く生活の範囲に希がいることに慣れてきているのを感じて複雑な気持ちになっている。

「今日はな、またあの花屋さん行ってきたんよ」 「ああ、」 「こないだのカーネーション、枯れてしもうたからまた買ってきたんやけど」 「そう」

 希が唯一言った我儘は、できるだけ一緒にご飯をたべること。

 価値観の違う人間が仕方なく暮らしているのだから食事くらいそれぞれのタイミングでとればいいと伝えたのに。

「ごはんの時間は誰かと共有するものやと思うんよ」

 そう言って譲らなかったから、希のそのこだわりに黙って従うことにした。朝食は今日一日なにをして過ごすのか、昼食は夜の献立のリクエストを聞かれて、夕食は今日一日あったことを話す。

 今日はな、あのな、うちな、それでな、

 希が一方的に話をするだけで満足しているのか、ろくな相槌を打たない私に向かって楽しそうに話すからなんとなく気になってしまった。

「私と一緒にいて楽しいの?」

 きょとんとした後、希が心配そうな顔になる。

「うち、えりちにそう思わせるような態度とった?」 「そういうわけじゃないけど。積極的に関わっても面倒なだけだと思うから」

 しばらくの沈黙の後に希が私の手の上に自分の手を重ねてきて、突然のことに手を振り払うのも忘れて固まってしまった。

「えりちは自分で思ってる以上に、優しい人間やと思うよ」 「そんなの」 「同居を許してくれてるのもそうやけど、うちがつくったご飯を絶対に残さず食べてくれるやろ」 「それがなに?」 「うち、えりちが梅干しと海苔が嫌いなの気づいとるよ。お昼ごはんにおにぎり出したら、ちょっと嫌な顔したけど全部食べてくれたやろ」 「だからそれが一体なんなの」

 希の言っていることは的外れだ。私が他人に無関心で寄せつけようとしないことには変わりないのだから。

「それに外出してもなるべく食事の時間には帰って来てくれるし、スーパーでお米買うときとかは一緒について来てくれるやろ?」 「ごはんのことばっかりじゃない」 「ふふふ。ほんとやな。でもそういう小さなことからもえりちの優しさを感じてるんよ」

 重ねていた手をぎゅっと握られて、それからするりと希の手が離れる。

「だからな、えりちと一緒におって飽きんし楽しいんよ」

 きっと世の中の後ろ暗いことなんて今までなにも知らずに生きてきたから、希はそんなことを照れもせずに口にできるのだと思った。

 ノートパソコンをぱたりと閉じる。  たまっていた仕事を済ませ、夕方から自分の小説にとりかかり日付が変わる前に切り上げた。硬くなった肩をぐるぐると回してほぐしながら仕事部屋を出る。少し喉が渇いて水分補給にキッチンへ行けば、リビングで希が前屈をしていた。

「なにやってるの?」 「寝る前にストレッチすると寝覚めがスッキリするんやって、テレビで言ってたんよ」 「ふうん」 「えりちにもおすすめやで」 「遠慮しておくわ」

 冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出してグラスに注いでいたら、希もキッチンの方にやって来た。

「うちもお水もらってええ?」 「ええ」

 グラスに水を注いで渡そうとしたら思わず固まってしまった。

「あの、」 「なん?」 「前が少しはだけてる」

 希がパジャマに着ているパイル地のワンピースが、さっきのストレッチのせいか胸元が谷間まで見えていた。

「えりちのえっち」

 いたずらっぽく笑う希の表情にはなんの含みもなくてそっと目をふせる。

「私が男に興味がないの、忘れた? あんまり無防備にならないで」 「あ、えっと……ごめんな」

 そう言って希が顔を赤らめるから、もやもやと苛立ちがこみ上げる。

「じゃあ、もう寝るから」 「うん、おやすみなさい」

 寝室に戻ってそのままベッドに勢いよく突っ伏した。脳裏に先ほどの谷間がちらついて頭を振る。希が無防備なのが悪い。考えないようにすればするほど、希は魅力的な身体をしていると思い当たっていやになる。真っ白い肌に私よりも大きな胸、腰のくびれを辿っていけば形のいいお尻が揺れていて。服の上からでも妖艶さをまるで隠し切れていない。  入浴後に髪をタオルで優しくふきとる後姿だったり、向かい合って食事をするときの食べ物を口に運ぶ指先、そんな希のこれまでの些細な仕草さえも思い出して枕に顔をうずめた。

 甘酸っぱさの一切ない、これはただの欲求。最後にしたのはいつだったか、思い出したのは甘い声で囁くあの人ですぐに掻き消す。だれに知られることでもないと抗うことに疲れただけ、これはただの欲情。特別罪悪感はなかった。頭の中でなにを考えようと私の勝手だ。ズボンの隙間に手を差し入れて、そっと目を閉じた。

「昼間でにはとか言って、結局ギリギリになったじゃない」 「でも間に合ったわ」 「あんたね、」

 頼まれていた雑誌の記事をにこに取りに来てもらったのはいいけれど、機嫌が悪いのか今日はいつもよりも突っかかってくる。

「にこさん、よかったら食べてな?」 「ありがと」

 絶妙なタイミングでコーヒーとショートケーキのセットを希が運んで来て、心の中でほっと一息つく。

「甘いもの食べたらイライラも吹き飛ぶよ?」 「さすが。一家に一人、希さんがほしいわね」 「真姫がいるじゃない」 「真姫ちゃんなんて知らないわよ」

 どうせくだらないことで真姫と喧嘩でもしたんだろう、自ら進んで面倒な話題に首を突っ込んでしまったようで後悔する。

「ちょっと夕飯の食材買いにスーパー行ってくるな。えりち、なんかいるもんある?」 「特にないわ」 「それじゃあ、ちょっと行ってくるな」

 ガチャリと希が玄関のドアを閉めた音が聞こえてすぐ、にこがかしこまったように姿勢を正した。

「で、あんたたちどこまでいってんの?」 「そういうの、下衆の勘ぐりって言うのよ」

 なにかと思えばそんなくだらないこと。どこまでといわれても、なにも始まっていないから答えようがない。

「同棲してるんだからなんか嬉し恥ずかしな甘酸っぱいことが起こったりするんじゃないの?」 「同居よ。大体にこが強要した生活じゃない」

 すぐに自分を慰める夜を思い浮かべたけれど、あれはただの生理現象だ。

「でもふわふわ系のおねえさん、タイプでしょ。散々泣かせてきたじゃない」 「人聞きの悪いこと言わないで」

 にこは冗談めかして言っているつもりだろうけれど、とっさに身構える。あの人のことをそんなに簡単に口にしないで。私には小説がある、それで十分。警戒する私をみてにこはちょっとだけ苦笑した。

「ごめん。でも絵里、ちょっと変わったわよ」 「人は変わるものよ」 「まあそうだけど。そういうことじゃないの、にこが言いたいことは」

 他人と同居すれば望まなくても多少は変わっていくもの。にこはそれを狙って同居をさせたのだろうし、そんなことを改めて言うことじゃない。

「それに希はこっちの人間じゃないわよ」 「ああ、まあそんな感じよね。彼氏いてもおかしくなさそうだし」

 たしかに記憶をなくす前に恋人がいた可能性は十分ある。今の希は不完全な状態で、そんなことを考える余裕はないだけ。

「このまま希さんの記憶が戻らなかったらどうする?」 「困るわね」 「そっけないわね」 「他人事だもの」

 いつまでもこの不自然な同居を続けていたってしょうがないし、記憶がずっと戻らないならやっぱり警察に任せるしかない。

「まあ、なにか手がかりとかわかったら連絡して。にこの方でも調べてみるから」

 他人の問題に首を突っ込んでなにが楽しいのかわからないけれど、この暮らしに慣れてしまうのはよくないから解決するなら早くしてもらいたい。 「それよりも自分の心配すればいいじゃない。真姫と喧嘩したなら」 「うるさいわね。言われなくてもわかってるわよ」

 それから惚気に限りなく近い愚痴を散々聞かされて希の帰宅と入れ替わりに、にこは帰っていった。

 ひどく寒い。くらくらして吐き気もする。  頭をぐつぐつと煮込まれているみたいに熱くぼんやりしていて、考えがまとまらない。体調が悪いから仕事をしばらく休ませてほしいという旨のメールをなんとかにこに送って、薬を飲むためにベッドから立ち上がった。

「えりち、顔色悪いけど大丈夫?」

 気がつけばキッチンでぼんやりしていたようで希が心配そうに顔を覗き込んでいた。

「寝不足なだけよ」

 動揺を悟られないように素っ気なさを装って希から距離をとろうとしたら突然の浮遊感に襲われてよろめく。

「えりちっ 大丈夫?」

とっさに希が私の肩を掴んでなんとか倒れずにすんだけれど、足元がぐらぐらと覚束ない感覚がしてしゃがみこんだ。

「熱、あるん?」

 希のてのひらが私の額に当てられて、振り払おうにも体が上手くうごかせない。

「相当高いなあ。なんで言ってくれんかったん?」 「べつに。薬のめば、こんなのすぐ、なおるわ」 「とりあえず、ベッドまでいこな? 歩ける?」

 全身が鉛のように重く、結局希が引きずるようにして寝室まで運んだ。

「ちゃんと熱測ろうな」

 測れば熱が39度近くあって、それを聞いていっそう体の怠さを感じる。

「ちょっと待っててや」

 それから希がキッチンに引っ込んでしばらくしておかゆを運んできた。

「食欲ないやろうけど、空きっ腹じゃお薬飲まれんから我慢して食べてな」

 ふーふー、とスプーンですくって冷ましてからお粥を口に運ばれ、なんとか胃に押し込めようとするけど1/4ほど食べたところで限界だった。

「もう、たべられな…」

 激しく咳き込んで最後まで言えなかった。喉が燃えるように熱い。

「気にせんでええよ。お薬飲もうな」

 朦朧とした状態で薬を飲んだところで緊張の糸が切れてそのままぷつりと意識を手放した。

 気づけば観客がいない舞台上でただ一人スポットライトを浴びて立ち尽くしている。 とても心許なかった。うずくまって頭をかかえる。よみがえるのはあの頃の叫び。あんなに自由に踊れていたのになぜ楽しくないの? なぜだれも見てくれないの? なぜ失わなければならなかったの? なぜ?

 誰よりもしなやかに美しくあろうと気の遠くなるような練習を積み重ねて私の全てを捧げたバレエ。うまく踊ればみんなが喜んでくれた。賢い可愛いと褒められるとうれしかったはずなのに、だんだんと自分の価値を試されているような気がしてまるで茨の上を裸足で踊るように痛みを伴うようになった。

 私のバレエ。そしてバレエのために私がいる。魂を削るようにして踊ったのに、いつの間にか擦り切れて限界がきてしまった。 

『わたしの大切なエリーチカ。バレエだけが全てではないわ』

 優しい言葉をかけてくれたお祖母さまの目は、はっきりと失望の色をしていた。大切なにかが失われる瞬間を感じてしまった。きっと私には二度と取り戻すことができないもの。

 それから逃げるように日本へ渡り、私はまた同じ過ちを犯した。

「えりち、えりち」  優しく呼びかけられたような気がしてぼんやりとしたまま目を開けた。ひどく気分が悪い。 「えりち? うなされとったみたいやけど大丈夫?」 「みず、のみたい」

 グラスを口に運ばれてゆっくりと飲み下したけれど、急に吐き気に襲われて咳き込んだ。

「ト、レに…いって、くる」 「トイレ行きたいん?ちょっと待って。うちがトイレまで連れていくよ?」 「いける、から」

 ひとりで行きたいのに体が従ってくれない。ひとりでできるのに手を差し伸べようとする。

「えりち、うちに掴まっていいから。なんでもひとりでやらんでもええんよ」

 頼りたくない、弱くないから。こんなことでつまずくほど脆くない。こんなにみじめで最低な気分なのは体が思うように動いてくれないからだ。

「ごほっ…けほっ」

 どうしても我慢できなくて、うずくまりさっき食べたお粥をその場に全部もどしてしまった。なにもかもきもちわるくて情けなくて気分がぐちゃぐちゃで、

「えりち、大丈夫?」

 もどしたものが服にかかって汚れた私に、希が触れようとする。

「さわら、ないでっ」

 力を振り絞って突き放して、喉が潰れて掠れるのもかまわずに声を張り上げた。

「わたしはなにも、ほしくないし、なにも…うしないたくない…っ」

 そばにこないでほしい。心にふれないでほしい。わたしはひとりで大丈夫。わたしは弱くない。わたしは、わたしは、

「うちはなんも奪ったりせんよ」

 希が柔かく包むように私を抱きしめた。

「大丈夫やから」 「バレエも、しょうせつも、期待に…応え、たかった、のに」 「うん」 「だれも、かなしませ、たく…なかった」 「うん」

 このまま体が水になってとけていきそうなくらい、あとからあとから涙がこぼれて視界がにじむ。

「つらいのにひとりでがんばったなあ。えらいなあ」 「くっ…ぅ、 …っ……」

 だれかに優しく頭を撫でられることがこんなにも安らぐなんて知らなかった。

「よごし…て、ごめ…なさ」 「きたなくないし洗濯すればええんよ。でもえりちは、今優しくせな、抱きしめてあげな、うちが後悔する」 「…ありが、とう」

 今だけはもう少しこのままで。

「今はまだわからなくてもいい。けど、えりちの思う弱さはな、優しさなんよ」

 そばにいてほしい。心にふれてほしい。

 3日間、ずっと寝たきりの状態で安静にしていたら熱が下がりすっかり回復した。  熱に浮かされていた時のことについはて断片的にしか覚えていないけれど、私がこれまで消化しきれなかった気持ちを希が包みこんでくれたことは覚えている。お互いにあの時のことについてなにも話さないけれど、あの日からさまざまなことが決定的に変わった。

 ありがとう、と言えるようになった。仕事の合間にコーヒーを仕事部屋まで運んで来てもらうようになった。希が喜ぶことをしたいと思うようになった。

「まいどありっ」 「早く仕事おぼえなさいよ」 「うんっ 凛、がんばる」

 花屋で働く凛に軽く挨拶をして店を出た。白と赤のマーブル柄のカーネーション。私と希のはじまりの花だから、想いは伝えられない代わりに花を贈ることにした。見上げれば今にも降ってきそうな鉛色の空で、足早に帰宅してキッチンにいる希に声をかける。

「これ、生けといて」

 包装紙に包まれたカーネーションを渡したら、希が大袈裟なくらい喜んでくれた。

「えりちが買ってきてくれたん?」 「ちょっと通りかかったから」 「ふふふ。ありがとうな」

 なんだってできる気がする。希の笑顔を守れるならどんなことでも。希が慈しむように花を見つめながら微笑むから、抱きしめたい衝動を必死に抑えた。

「雨降りそうだから洗濯物取りこむわね」 「あ、ほんとや。うちがやるよ」 「いいから、希は夕食の準備してて」

 家事を全部こなそうとする希をキッチンに押しこんでベランダに出るともうすでに雨は本格的に降り出していた。濡れそうな場所にあるものから優先的にカゴに入れていく。シーツ、シャツ、タオル、ブラウス、ワンピース、ジーンズ、靴下、下着、思わず手を止める。下着なんてただの布切れだとわかっているのに、それが希のものだというだけで触れることに罪悪感を覚える。こんなこと、希に気づかれたらきっと。

「えりち、ごはんの準備できたで」

 希がのんびりとした声で呼びかけてきたから、ブラウスと一緒に素早く白い下着をカゴの中に入れた。

「雨、ひどいなあ」

 夕食の後、リビングのソファで揃ってテレビを観ていたら希がぽつりと呟いた。

「まるで嵐みたいね」

 風が強いのか窓はガタガタと揺れ大粒の雨が硝子に打ちつけられる。夜とはいえいつもより部屋が薄暗く感じてまるでホラー映画の世界に迷い込んだみたいで落ち着かない。いつもなら仕事部屋にこもって作業している時間帯だったけれどソファから立ち上がれずにいた。小さめの音量で流れるテレビをぼんやりと眺めていたら、ごろごろと空が唸り出して思わずびくりと反応してしまった。

「えりち、雷こわいん?」 「暗いのが苦手なだけ」

 取り繕っても仕方が無いと白状すれば、ふふふと希が笑った。

「だから今日は一緒にテレビ観てくれてるん?」 「そうやってからかわれるから言いたくなかったのよ」 「ごめんな。うれしいんよ。暗くてもうちがおるからこわくないやろ?」

 そんなことを簡単に言わないでほしい。勘違いして引き返せなくなる。もどかしさを抱えてうつむけばバスルームの方からお湯が沸いたと自動音声が聞こえてきてほっと胸を撫で下ろす。

「先に入ってくれば?」 「えりちからでええよ」 「私はあとで入るから」 「じゃあ、」

 そう言ってソファから立ち上がり私の隣から感じていた熱が遠ざかる。希が入浴の準備をしてバスルームへと消えていった。背もたれから体を離して前のめりにうなだれる。希が無防備なのではなく私が意識しすぎているだけ。どこにもいけないのに勝手に舞い上がって私はどうしたいんだろう。ほしいと思えば失う覚悟も決めなければいけないのに、手を伸ばそうとしてしまう。しばらく一人でぐるぐると考えていたら、唐突に一筋の光が窓から差し込み遅れてきた雷鳴と共に部屋全体が真っ暗になった。

「なに?」

 咄嗟に携帯を探したけれど寝室に置いてきたことを思い出して舌打ちした。窓から見える景色も真っ暗でどうやら停電したらしい。暗くて右も左も分からない。唐突に無防備な状態にさらされ頭が混乱して体中の血の気が急激に引いていくのを感じた。 「えりち、おる?」

 ガチャリとドアが開いて、バスルームから出てきたらしい希の声のする方へ手探りでなんとか近づいていく。

「の、ぞみ……どこ…?」 「えりち、大丈夫?」 「お願い黙らないで」 「うん。ここにおるよ。えりち、えりち、えりち」

 希の呼びかけに導かれながら膝をついて慎重に距離を縮めていけば不意に抱きしめられた。 「こわかったやろ。一人にしてごめんな」

 頭が真っ白になる。どうして? 「体が、濡れてる」 「お風呂入っとったから。急に暗くなっていそいで出てきたんやけど、服濡れてしもうてごめんな」

 希に過剰な心配をかけさせて、私はなにをやっているのだろう。すっかり冷えた希の体はすこし震えている。守ってもらってばかりの自分がどうしようもなく不甲斐ない。そしてなによりもバスタオル越しに伝わる希の素肌を感じて熱を上げる自分が情けなくてどうしようもない。

「のぞみ」

 きつくきつく希の体を抱きしめて深呼吸した。  離したくない、この大切な人を。どこにもいかないで。

「えり、ち?」

 暗闇の中で希の耳を探しあて耳朶にそっとふれる。それから頬を伝って柔らかな唇を輪郭をたしかめるようになぞって、そっとキスをした。

「えり、」

 一度離して希の下唇を甘噛みしたあと舌をさし入れる。逃げることも追うこともしない希の舌をただひたすら自分のものに絡ませて味わいつくした。

「ん……ふっ…ん、」

 私の唾液が希の口の端からつうっと伝っていった。 「はぁっ…んっ……の、ぞみ」  暗闇に目がすこしずつ慣れて目の前にいる希を見つめたら、諦めたように笑ったような気がした。途端に背筋が冷たくなって熱に浮かされたあの夢を思い出す。

「わたしは、」

 希が両手を差し出して私の頬を包み込んだ。おさえていたバスタオルが希の体の上から音もなく落ちる。

「えりちがしたいようにしてええよ」

 私は知っている。これはだれかの期待に応えようとしている目。そこに自分の意思がないことを私はよく知っている。

 そこまでする価値はあるの?  記憶が戻ったらどうするの?  なにを考えているの?

 同じ過ちを希にもさせたくはないのに、どうしても手に入れたくてそのままゆっくりと冷たい床に押し倒した。

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