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ドアに挟まったプロローグ

  • violeet42
  • 2016年11月14日
  • 読了時間: 9分

小説家絵里となにも持ってない希の話。 ほんとうの物語をおしえて 1

「ねえ、おねがい。戻ってきて」

 電話口でささやかれる甘い声。何度も聞いてきたこの声を、心地よく感じていたことがかつてあった。

「あなたがいないとだめなの」

 やめて。

「絵里もそうでしょ」 

 もうやめて。

「私はちがうわ。あなたはあなたの物語を書いて」

 言えることはそれだけだった。手段や目的をはき違えていた私たち。すべて終わったこと。

「あなたを愛し」

 定期的にかかってくる電話をこうして律儀にとっていたのは、ただ罪悪感が私にも少なからず残っているから。それだけ。静かに通話を切った後、煙草に火をつけてベランダの手すりにもたれた。白々しいほどに白い息を吐きながら頭の中で反芻する。

才能は望む相手に均等に与えられるわけじゃない。ほしいものを過不足なく手に入れることはできない。なにかを得ればなにかを失うことになる。こんな簡単なことに気づきさえすれば、だれだって傷つかずに平穏に暮らしていけるのに。

 期待して、欲しがって、執着して、馬鹿馬鹿しい。

 吐いた煙が曖昧になって夜空に溶けていった。跡形もなくまるで最初からなにもなかったかのように、自分が孤独だということを思い知って安心する。それから短くなった煙草を灰皿に押し付けて室内に戻った。

 無機質な音で騒ぎ出した目覚ましを朦朧とした意識のまま探り当てる。  朝は嫌いだ。一日が素知らぬ顔をして新しくなることについていけない。はじまりが憂鬱だった。寝返りをうって時計を見るともうすでに12時を回っていた。携帯を確認すればうんざりするほどの着信が入っていて、そういえば今日が原稿の締め切りだと自覚する。昨夜途中まで書いた記事を今からとりかか れば間に合うはず。いやそうであってほしい。

 とりあえず寝覚めのコーヒーでも飲んで落ち着こうとキッチンに行けばコーヒーが切れていた。冷蔵庫には食べるものすらなにもない。小さく舌打ちをしてそっとため息をついた。なにもやる気が起きなくてしばらく立ちすくんでいたら、テーブルに置かれた携帯が忙しく振動しなにも考えず条件反射で出た。

「ちょっと絵里。あんた今起きたんじゃないでしょうね。インタビュー記事出来上がってんの?」 「起きてたわよ。もうすぐ書き終えるから」 「もうすぐってどれくらいよ」 「2時間、いや3時間くらいで」 「あんたぶっ飛ばすわよ。いい? 3時間後にそっち行くからそれでも書き上げてなかったら覚悟しなさいよ」

 うんともすんとも言わないうちに通話を切られてキンキンと耳がうるさい。小さな体のどこに凶暴性を秘めているのかよくわからないけれど、とりあえずなけなしの猶予をもらったからにはさっさと原稿を終わらせなければならない。  ただその前にやることがある。寝起きにコーヒーを飲まなければどうしても作業に集中できない性質だから、まずはスーパーで買い物をさっさと済ませなければならない。とりあえず面倒だからと部屋着のまま財布をひっつかんで玄関のドア開けようとしたら鈍い音がした。気のせいかドアが重い、というよりもなにかがつっかえて開けない状態だった。

 恐る恐るドアを押してみれば、傷だらけの女性がドア寄りかかっていた。

「ごめんな。すぐ、どくから、少しだけ、やすま、せ……て」

 とりあえずスーパーの買い物は諦めて、ドアのストッパーになっていた彼女をリビングまで運びこんだ。ソファーに横たわらせてまじまじと観察してみれば身に着けてるワンピースはぼろぼろでところどころ汚れている。整った顔や体のあちこちに切り傷や痣があって、いかにも面倒な事情を抱えている匂いが立ちこめていた。聞きたいことは山ほどあったけれど相手は気絶していて、こちらはこちらで締切に追われているから仕方なくコーヒーの切れた頭で仕事に取り掛かる。予想以上に早く2時間ほどで記事を書き上げ原稿をメールで送り仕事部屋を出てリビングの様子を見にいった。

「あの、ここは、」

もうすで目が覚めていたらしく状況がわかってないのかおびえながらも彼女が尋ねてきた。

「私の家の前で倒れていたの。いろいろと怪我してるみたいだしそのままにしておくのもあれだからとりあえず家に入れたんだけど」  意識は取り戻したがまだ顔色が悪く、彼女は心許なさそうに自分の肩を抱いた。

「そうなんや。それは、ありがとう。あの、ちなみになんやけど、うち、あなたの知り合いやろか?」 「え?」 「なんていうか、うちもまだ混乱してるんやけど、昨日までの記憶が全然思い出せんくて」 「それって」 「意識がはっきりせん状態で歩いてこけたりしたからこんなボロボロなのはぼんやりと思えてるんやけど、それ以上のことがよくわからんというか、」

 まるで空想話みたいなことを言い出して、整理させようとした状況がさらに散らかる。馬鹿にされているのかもしれないと怒りに任せて口を開こうとしたけれど、たしかに彼女の体は満身創痍だ。じっと見つめれば不安そうに視線をさまよわせながらうつむいたから、とりあえず押し黙った。

「あの、急に信じられんよねこんな話」 「名前はわかる?」 「の」 「の?」 「のぞみ」 「どう書くの?」 「ええと、」

 手近にあった紙切れとペンを渡せば迷いながら彼女が「希」と書いた。のぞみ、頭の中で反芻してみても私には心当たりがない。

「他にわかることは?」

 苗字、年齢、住んでいる場所、仕事、他のことを尋ねてもわからないと申し訳なさそうに首を横に振るばかり。思わずため息を吐く。ほとんど真っ白だった。下の名前しかわからないままでどうやって生活していくのだろう。こんな状況でいきなり家から放り出すことはできないので警察に任せるしかない。まとまった結論を口にしようとしたら、部屋にインターフォンが鳴り響いた。

「来たわよっ 原稿できてるんでしょうね。いるんでしょ。開けなさいよ」

 何度も何度も催促するようにドアを叩かれる。

「あの……借金取り?」 「限りなくそれに近いけど、ちがうわ」

 空気をまったく読まない来訪者を追い返すためにドアを開ければ、にこが腕を組んでたたずんでいた。

「やっぱりいるんじゃない。覚悟はできてんの?」 「原稿ならもうメールで編集部に送ったけど」 「え、あー、ほんとだ。ごめんごめん先走っちゃったわね。にこにーの可愛さに免じて許して」

 大学時代から変わらない鬱陶しさにはもう慣れてるけれど、今日はもうこれ以上の厄介事は勘弁してほしい。

「じゃあ帰って」 「ちょっと。せっかく来たんだしお茶くらい飲ませなさいよ」 「うるさい帰って」 「冷たいいじわるエリーチカ」

 本当に勘弁してほしい。ごちゃごちゃとつまらないことで揉めていたら、申し訳なさそうに希が玄関までやってきた。

「あの、長居してごめんな。すぐ出ていくから」

 にこが目を丸くしたあと、すかさず私の肩をつよく叩く。

「あんた女連れ込んでるならそう言いなさいよ。にこだって空気くらい読んだのに」

 玄関口で叫ばれたら近所迷惑以外のなにものでもないからと仕方なくにこも部屋に引き入れて、これまでわかってる経緯を全部話した。

「いろいろと謎はあるけどとりあえずボロボロだし医者に診せた方がいいと思うわよ」 「そうね」 「あの……でも、ちょっと怪我してるだけで今はもう元気やから」 「全然元気そうには見えないわよ。いい医者知ってるから紹介してあげる」

 そう言われにこに強引に連れられたのは見慣れたマンションだった。

「ここ、病院じゃないみたいやけど」 「にこの同居人がお医者さんなの。今日非番だから診てもらうといいわ」 「同居人、ね」 「なによ」

 にこの家には大学時代に何度か来たことがある。でもあの時はもっと古いアパートに住んでいたし、にこの言うところの同居人はいなくて一人暮らしだった。高級ホテルのロビーのように洗練されたエントランスを抜けてエレベーターに乗り込み、案内されるがままににこの家のリビングに通された。

「ちょっと呼んでくるわね」

「またにこちゃんがなにか迷惑でもかけた?」

 そう言って真姫が髪の毛先をくるくると指先に巻きつけ遊ばせながらリビングに入ってきた。

「ちょっとなんでにこが迷惑かける前提なのよ」

 気の強さが垣間見える瞳が印象的な整った顔立ちの女の子、はじめてにこから紹介されたときから真姫の印象は変わらない。にこが真姫に事情を説明して簡単に希を診察してもらった。

「ちゃんと検査してないから何とも言えないけど、記憶喪失はたぶん一過性のものだと思うわよ。頭を強く打った形跡もないから何かのショックで一時的に記憶を失ってるだけ」 「そう、なんや」 「よかったわね。脳の病気とかじゃなくて」 「うん、ありがとう」 「べつに、」

 お礼を言われた真姫は照れ隠しなのかいっそう毛先をくるくると指に絡ませはじめた。

「あと体の痣もそんなにひどくないから、しばらくしたらすぐに消えるわよ」

 とりあえず目先に転がっていた問題は解決したけれど、記憶がない人間がこれからどうやって過ごしていくのかという問題はまだ解決されていない。部屋にいる全員が押し黙りしばらくした後、口を開いた。

「警察に行くなら送るわ」

 記憶のない人間なんて普通の人間には手に負えない。ただでさえ今日は余計なことに巻き込まれて少し疲れているし、今日はもうスーパーで買い物して早く帰りたい。ぐるぐると考えごとをしていたら、

「絵里の家でしばらく居候させてあげれば?」

 一番望まない提案をされた。

「ふざけないで」 「だって絵里の家で倒れてたんでしょ。なんかの知り合いとかじゃないの?」 「今日初めて会ったばかりよ」

 ただでさえ人と関わらないように生活してるのに面倒事を押し付けないでほしい。警察に任せた方がいいに決まっている。

「でも希さんを警察にいきなり連れていくのはさすがに可哀想じゃない」 「他人事だからってそんな無責任なこと言わないで」 「あの……なんか、うちのことでごめんなさい。警察に行くから気にせんでええよ」

 おずおずと困ったように笑いながら希が口を開いたが強がってるのは私にでもわかる。だからといって私が助けなければならない理由なんてどこにもない。にこと私が言い合うのをじっと観察していた真姫が希を見ながらつぶやく。

「記憶のない人間と共同生活なんて、小説のいいネタになるんじゃない?」

 さらに無責任な言葉を投げてきた。事実は小説より奇なり。確かにスランプにはいい刺激になるかもしれないけれど、赤の他人と一緒に暮らすなんて私には耐えられない。

「そうよ。絵里、居候させてあげなさい」 「だから無理よっ」

 希が目の端に映ったがそんなことは関係ない。私がそこまでする義理はないはずだ。

「あんたが小説を、自分の文章が書けないのは人と関わるのを拒否してるからよ」

 私にまっすぐな視線をよこしてにこが静かに放った言葉に対して反論したいことはたくさんある。けれどすべての主張を飲み込みぐっと睨み付けた。

「いい? これは編集者命令よ。希さんが記憶を取り戻すまで一緒に生活すること」 「勝手に決めないで」 「自分の文章で小説書きたいんでしょ?」

 そんなのただのこじつけで関係ない。なにもわかっていない。でもにこの瞳は揺らがず拒否することを許さなかった。フラッシュバックする。あの頃、あの人の表情、私がしてきたこと、そっとにこから目をそらす。

「あの、うち…ごめんなさい。警察には自分で行けるから」 「もういいわ」 「え?」

 状況がつかめずにおどおどしている希の手を掴んで脇目もふらずに玄関へと向かった。

「あの、うちどうしたら、」 「家に帰るわよ」

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