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事実は小説よりも恥ずかしい

  • violeet42
  • 2016年11月15日
  • 読了時間: 3分

 放課後、帰りのホーム―ルームの挨拶とともに机の横にかけていた革鞄をひっつかんで急いで駆け出す。下駄箱で靴に履きかえることさえもどかしく感じるほど心はもうあの本屋さんへ向かっていた。校門の坂道を駆け下りて細い小道へと入れば急に周りの雰囲気が変わって好奇心をくすぐられる。目的地の前で立ち止まって上がる息を整える。  すーっと息を吸い込んで胸いっぱいにため込んだ空気をゆっくりと吐き出す。毎日毎日私はこの瞬間のために生きている気がする。少し重い扉を両手でゆっくりと押せば、カランカランと訪問者を告げる音が鳴る。一直線にカウンターへと向かい挨拶すれば優しい声で希さんが挨拶してくれた。

「こんにちは」 「絵里ちゃん、今日も熱心やね」

 年季の入った店構えでお客さんといえば一癖も二癖もあるような老人ばかり。恐る恐る店内に入れば薄暗くて埃っぽくて歩くたびに床が軋む音しか聞こえない静かな空間。出来心で入った古本屋の奥のカウンターに座っていたのは、とても物腰の柔らかそうなおねえさんだった。

「今日はなんの小説ですか?」 「えーっとなあ、夏目漱石の『三四郎』」 「あの、いつも、ありがとうございます」 「お礼なんかええよって。学生のうちにたくさん本は読んでおいた方がええから」

 活字なんてこれまで積極的に触れてこなかった私がこうやって熱心にこの本屋に通うのは物語の魅力に取りつかれたからではなくて、この美しい人に魅入られたから。希さんのすらりと伸びた指が本のページをなめらかにめくる仕草が、うまく話せなくで言葉が詰まってしまった時に柔らかく微笑んで待ってくれるその優しさが、私を夢中にさせて離してくれない。  きっとどんな恋愛小説を読んでも私はもう満足できない。

「この本はこの前よりも読みやすいと思うよ」 「いや、この前の本も、面白かったです」 「ふふふ。背伸びさんやなあ。ほんとはちょっと難しかったやろ?」 「……はい」

 足繁くこの本屋に通うようになって希さんと少しずつ仲良くなっていったのは飛び上がるほどうれしかったけれど、読書家ではないことがすぐにばれてしまって恥ずかしかった。本当は希さんの好きな本の話で盛り上がりたいのにそれができなくてもどかしい。でも希さんは本の知識のまるでない私をからかわずにおすすめの本を貸してくれるようになった。

「自分の好きなものを他の人にも好きになってもらうのはうれしいことやから」

 夕日がゆっくりと紫にのまれて町中に夜の気配が少しずつ漂ってきている。ああ今日の幸せなひと時もこれで終わり。

「それじゃあ、また」 「読んだら感想聞かせてな」

 本屋を出て名残惜しむようにゆっくりと家路を歩く。空を見上げればすでに白くて細い月が心許なさそうにたたずんでいた。早く読んで感想が言いたくて借りたばかりの本を革鞄から取り出した。ぱらぱらと本のページをめくれば埃っぽい古本独特の匂いと希さんのあまい香りがかすかにして頭がくらくらする。

 最後のページからひらりと紙切れのようなものが落ちて、不思議に思い拾い上げればそれはうす紫色の栞だった。和紙でできたその上品な栞はまさに希さんにピッタリで思わず笑みがこぼれる。何気なく裏をひっくり返せば、

〈月が綺麗ですね〉

 見覚えのある希さんの美しい文字。どくんと心臓が高鳴って鼓動がせわしなく動き出す。

「もうっ……ずるいっ」

 ずるい。ずるい。ずるい。大人はいつもまわりくどい手を使う。まっすぐで正攻法しか知らない子供が馬鹿みたい。本をしっかりと胸に抱きしてめて、愛しい人に文句を言ってやるために来た道を全力疾走で戻った。

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